稱名寺の歴史

平間山 歓喜院 稱名寺

稱名寺の歴史

稱名寺の龍

赤穂浪士と稱名寺

稱名寺の歴史

稱名寺の源流は、天長9年(831)空海(弘法大師)の弟子弘海が現在地に草庵を建立したことに始まります。以来、寺号を大悲山普門寺と称し真言宗の寺として経過。永仁5年(1297)13代忍峯阿闍梨は本願寺2世如信の弟子となり、法名如海を賜ります。この時、宗旨を浄土真宗に改宗し、以後寺号を平間山稱名寺と称しています。
寺号の稱名寺(稱は称の旧字体)とは「南無阿弥陀仏のみ名を称えるお寺」の意であり、山号の平間山とは地名に拠るものです。鎌倉時代の『吾妻鏡』建長8年(1256)の条に「平間郷」とあり、多摩川に沿った水田として拓けた土地であり、稱名寺の面している道は、「神奈川往来」と呼ばれていた古い道だったようです。
天正20年(1592)の本願寺東西分派により、慶長17年(1612)宗圓の時、東派(東本願寺末)となり現在に至っています。なお江戸幕府が文政年間(1818~1829)に編纂した『新編武蔵風土記稿』によると「平間山歓喜院稱名寺」と称したこともあるようです。『風土記』では明暦年中の頃(1655~1657)に火災に遭い、それまでの寺の古記録焼失との記述があります。
稱名寺は先の大戦中、川崎大空襲(1945.4)の折、焼夷弾の直撃により寺院の大事な書類をはじめ、本堂(八間四面)・庫裡・山門を全焼し、唯一戦火を免れたのは鐘樓堂だけでした(梵鐘は戦争のため、強制供出したまま戻らず)。終戦後(1945.8.15)焼け野原からの復興が始まりましたが、ご門徒の浄財によって、仮本堂建立(1952)、現本堂建立(1961・七間四面)、現庫裏・梵鐘建立(1975)、現山門建立(2007)と再建の道を歩んでまいりました。 歴史を紐解くと稱名寺はその時代その時代を生きるご門徒の手によって、「念仏相続」の道場として再建され続け、浄土真宗の教えが川崎平間の地で継承されることが願われているお寺であることがわかります。

● 稱名寺の龍

焼失前の稱名寺の茅葺きの山門には、江戸時代の彫刻師、左甚五郎作と伝えられる「龍の彫り物」が安置され、龍の目には五寸釘が刺さっていました。その昔、風雨が続き田畑が荒れた際、稱名寺の龍が暴れ回り悪さをしているとの噂が立ち、村人が目に釘を打ち付けたところ嵐が治まったということであります。このような伝説が今日まで伝承されています。現在の龍は、子どもの頃、その話を聞いていたご門徒により平成5年(1993)に新しく寄贈されたものです。

● 稱名寺と赤穂義士

江戸時代、元禄15年(1702)12月14日に起こった赤穂浪士四十七人による吉良邸討ち入り事件は現在に伝わる有名なお話です。討ち入り前日の13日付けで大石内蔵助は赤穂藩主浅野家の菩提寺へ『大石内蔵助より花岳寺ほかへ送る暇乞いの状』なる長文の遺言状を送っています。その文中には討ち入りのため、京都を旅立った後、神奈川に入り鎌倉に宿泊、その後川崎近所平間村に逗留との記述があります。この逗留の場所が稱名寺前の道を挟んだ平間村の農家軽部五兵衛屋敷です。五兵衛は事件の起こる前より江戸城下の赤穂藩上屋敷に出入りし、平間村でとれた秣(まぐさ)を屋敷内の馬の飼料として納め、帰りに下肥を持ち帰って田畑の肥料としておりました。この関係があり赤穂藩主浅野内匠頭の切腹後も、江戸に残った浪士との交流が続き、五兵衛の屋敷内には浪士のための寓居が建てられ、主に四十七士の一人富森助右衛門が居住しておりました。この寓居に討ち入り直前の大石一行が10日間程(10月26日~11月5日)立ち寄り、準備を進めたのです。
このような関係があり、稱名寺には「紙本着色四十七士像(川崎市文化財指定)」他、大石内蔵助の書画など14点ほど遺されています。川崎大空襲の前に地元の農家土蔵に疎開しており焼失を免れました。遺品は毎年12月14日に年1回、一般公開しております。

歴史資料
親戦前の山門
戦前の山門
現在の山門にある龍の彫刻
現在の山門にある龍の彫刻
紙本着色四十七士像
紙本着色四十七士像