2012年12月14日(金)に例年通り、稱名寺に伝わっている赤穂義士遺品の一般公開を致します。午前9時半から午後4時です。(無料)
時間は決まっていませんが、住職が適宜ご説明を致します。
以下稱名寺ホームページより転記
● 稱名寺と赤穂義士
江戸時代、元禄15年(1702)12月14日に起こった赤穂浪士四十七人による吉良邸討ち入り事件は現在に伝わる有名なお話です。討ち入り前日の13日付けで大石内蔵助は赤穂藩主浅野家の菩提寺へ『大石内蔵助より花岳寺ほかへ送る暇乞いの状』なる長文の遺言状を送っています。その文中には討ち入りのため、京都を旅立った後、神奈川に入り鎌倉に宿泊、その後川崎近所平間村に逗留との記述があります。この逗留の場所が稱名寺前の道を挟んだ平間村の農家軽部五兵衛屋敷です。五兵衛は事件の起こる前より江戸城下の赤穂藩上屋敷に出入りし、平間村でとれた秣(まぐさ)を屋敷内の馬の飼料として納め、帰りに下肥を持ち帰って田畑の肥料としておりました。この関係があり赤穂藩主浅野内匠頭の切腹後も、江戸に残った浪士との交流が続き、五兵衛の屋敷内には浪士のための寓居が建てられ、主に四十七士の一人富森助右衛門が居住しておりました。この寓居に討ち入り直前の大石一行が10日間程(10月26日~11月5日)立ち寄り、準備を進めたのです。 このような関係があり、稱名寺には「紙本着色四十七士像(川崎市文化財指定)」他、大石内蔵助の書画など14点ほど遺されています。川崎大空襲の前に地元の農家土蔵に疎開しており焼失を免れました。遺品は毎年12月14日に年1回、一般公開しております。